私の眼日記①
- 2018.08.13
- メガネの金剛
読者の皆様、こんにちは。初めにまず、私の自己紹介からさせて頂きますね!!
現在、昨年9月4日に新しくOPEN致しました河内長野駅前の「ノバティながの3階」の店舗にて勤務しております「メガネの金剛ノバティ店」の石井 寛(イシイ ヒロム)と申します。
子供の頃から、「ムーちゃん」と呼ばれています。
どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
私は卒業後、26歳ぐらいからこの眼鏡業界にお世話になり、途中紆余曲折しながらも何とかこれまでこの眼鏡業界で頑張っております。
趣味は高校時代からの友人の影響を受けてこれまでオフロードバイク
最近では、カメラ、登山、資格のいらない無線
直近では、ノバティながの店のイベントを行っている関係でカブトムシ&クワガタ取りを童心に戻って楽しんでおります。
同じ趣味の方がおられましたら、是非コメントもお待ちしておりますよ~ (^O^)
出身地は和歌山県で、現在も高野山のふもとの町に住んでおります。
自然が豊かで、果物の中でも、柿・みかん・葡萄などの産地としても有名です。
近隣の九度山町は戦国武将の「真田幸村」の町としても有名で、「道の駅」では「柿ソフトクリーム」目当ての観光客の方も多いんですよ!!是非、一度召し上がってくださいね (^_-)
会社Blogへの記事を書くにあたって「さて何を書こう」と考えた時に、自分自身にとって眼鏡を掛けるということは切っても切り離せない事でした。
これまでの眼鏡とのかかわりやこれまで体験した眼病のことを、このBlogを通じて何回かに分けて綴っていこうと思います。
それを書くことによって読者の方々へ少しでも希望・励み・勇気に繋がればと思い、毎回楽しく伝えていきたいと考えています。
ご興味のない方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞお付き合い下さいね。
記憶を辿ると、私が眼鏡を初めて手にしたのは小学校4年生位の時でした。
今と違い当時の小学生は、携帯・スマホ・PCもなかった時代ですので眼鏡を掛けていたのは1クラス(田舎でしたので1クラス40人位)で5人前後位でしたでしょうか??
そんな時代でした。
私も友人達も、学校が終わればみんな自転車に乗って野球をしたり虫取りに行ったりしていました。
近くばかりを見る環境が少なく、幼少期からの治療目的以外では近視の子たちも少なかったですねぇ~。
私の場合は母親が強度近視でしたので、半分遺伝的な要素があったのかもしれませんね!?
学校健診から眼科受診を経て処方箋が発行され、ついに眼鏡装用へ・・・((>_<))
今ではただのおっさんになってしまった私ですが、小学生の頃はちょっと異性の女の子にもてたいと思った時期がありました。(男子ならば誰でも経験があるのではないでしょうか・・・?)
結局小学校4年生~5年生時代は、教室でも机の下に眼鏡を隠してほとんど使用しなかった記憶があります。
そうこうしているうちに、私の近視はどんどん進行してしまったんです。
この頃になると度数もある程度進んでいましたし、眼鏡を掛けないと何もかもが見えにくいので諦めていました。
周りの友人達も眼鏡の装用者が多いので眼鏡への抵抗は少なくなっていましたね (=^・^=)
しかし大学に入学した忘れもしないその年、昭和57年5月25日に私の身に思わぬ災難が降りかかってきたんです(>_<)
それは、アルバイトで捻出した資金で自動車の運転免許を取得しようと、5月ごろから通い始めた自動車学校からの帰り。
友人に乗せてもらっていた私達のバイクと車とが側面衝突し、私はその日から約3か月の間、外科にて手術+入院。
その後、後遺症にて約1か月、眼科にて手術+入院になってしまいました。
昔の時代でしたから、こんな難しい手術で眼のほうは良くなるとは思わず、半ば人生をあきらめ感があったのも事実です。
おかげで大学入学後の前期は、ほとんど出席できず病院のベッドで友人たちが持ってきてくれたノートのコピーを見返して前期試験は出席不足の為にレポートを出しまくったり、教授室に頭を下げてお願いに行ったりで、大変だったことを今でも忘れません。
その頃の友人と教授陣には本当に感謝です。
しかしこの事件が後に、転職しながらも私がこの眼鏡業界に入り現在まで頑張れるきっかけ(原動力)になったんです。
和歌山県立医科大学付属病院 眼科での18歳の時に受けた眼の最初の手術+入院がこれまでの人生の中で一番辛かった経験ですねぇ~ (+o+)
ですので、これ以降のしんどかった事は、たいてい乗り越えて現在まで頑張ってこれましたけど・・・(~o~)
続きは、次回Blogまでお楽しみに・・・(^_^)/~