私の眼日記 ⑥ 網膜剥離【左眼】2
- 2019.02.11
- メガネの金剛
皆さん、こんにちは。
メガネの金剛ノバティながの店の石井です。
寒い日が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか?
この記事をご覧いただく頃は、もう年が明けて新年になっている頃でしょうね。
防寒対策をきっちりされ、風邪など引かない様にお気を付け下さいね。
さて、今回の記事は前々回で予告していた「網膜剥離【左眼】編」になります。
交通事故による右足の骨折修復手術に続き、人生2回目の手術になります。
この当時の網膜剥離手術は、現在の硝子体手術は行われていなかったと思います。
そのため、現在と比べ入院期間や手術時間に差があるかもしれません。
今回の内容も少し暗めの記事かもしれませんが、現在同じ病気で戦っている方やそのご家族様、
或いは将来この病気を患ってしまった時のための心の準備とケアの為に書かせて頂きます。
前回までの記事は、近所の病院での診断結果、そしてその日の私の様子までを書かせて頂きました。
今回からはいよいよ、紹介状を持って和歌山市内の病院での入院~手術、そして退院までのお話。
途中、医学的にショッキングな語句がありますと、読者の方々の中にはもしかしたら
「もう、記事を読みたくない」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。
私の考えられる言葉の中でできるだけオブラートに包んだ表現にしたいと思っておりますが、
あくまでも私の主観ですので、万が一御気分を害されました時には何卒ご容赦下さい。
さて、本題にはいります。
地元の病院に行った翌日、私は両親と一緒に父のワゴン車で病院へ向かいました。
後ろの座席を倒してできるだけ剥がれた網膜に負担を掛けぬ様に横たわりながら、
和歌山市内までおおよそ1時間の道のりを走っていました。
いつもは楽しく話しながら車に乗ることが多かったのですが、今回ばかりはサイレンこそならないものの、救急車の中の様な雰囲気でした。
家族みんな終始無言で、自分の事ながら本当に暗い雰囲気で息が詰まりそうでした。
「やっぱり、自分の家っていうのが一番ええなぁ~」と感じながら病院に向かっていました。
今回発症した左眼の網膜剥離は、症状の進行が早く1日~2日で全く見えなくなってしまいました。
50歳過ぎに発症した右眼の網膜剥離は、視野が欠けて行く時間が比較的ゆっくりでした。
勤務地近くの眼科緊急受診時や、その後のかかりつけの眼科受診の際もなるべく手術に至らなくて済むようにと、何度かレーザー凝固を試みて頂く位の余裕がありました。
(結果的には右眼も手術適応となってしまいましたが・・・(-_-))
病院に着いた後は入院案内を聞き、眼科入院病棟に案内されました。
疲れていたのですぐにベッドに横たわってしまったのを覚えています。
時刻はもう夕方になり、病院の晩御飯が配膳される直前だったと思います。
入院後、トイレ・食事以外は絶対安静を義務付けられました。
手術する方の眼は左眼だけでしたが、眼は両眼とも一緒に動いてしまうので右眼の方も眼帯で塞がれてしまい、全く何も見えない状態にされてしまいました。
お見舞いに来て下さった友人達も誰かわからず家族に聞いたりしてやっと判別できた状態でした。
当時の医科大学附属病院は和歌山市外れの紀三井寺ではなく、和歌山市のほぼど真ん中の和歌山城の近くに位置していました。
和歌山城から一定の時間になると何かのメロディーが流れてきて「ああ、もうこんな時刻なんだな~」と判断していました。
食事もトイレもできるだけ起き上がる時間を少なくしなければならなかったので、ほんとに辛い(入院生活は誰しも楽しくはないと思いますが・・・)期間でした。
べッドの上には「砂枕」というものがあり、左右に顔が動かないよう真っ直ぐ上を向いたまま、手術日までの約2週間そのままの姿勢でいなければなりませんでした。
病院の中の様子も歴史の長い病棟らしく、かなり老朽化した感じだったと記憶しています。
(当時の写真が残っていれば良かったのですが、入院中はそんな余裕もなく当時の様子は言葉の説明のみで申し訳ないです)
術前説明では、手術が終了しても約2週間の安静入院が必要とのことでした。
先生の許可が出るまでお風呂はもちろん、シャワーや強い振動、重たい荷物を持つことも禁じられ、おとなしく過ごす事が重要であると聞かされていました。
18歳という若い時期に加え、夏真っ盛りの8月に入院だっただけに、身体の新陳代謝も活発で頭も痒くなるし顔も脂ぎって来るし…
早くお風呂に入りたい事だけ願っていました。
とにかく、この眼病は昔も今も安静第一、退院後も一定期間は眼に衝撃がかからない生活を心がけねばなりません。
外科的な病気や怪我ですとリハビリがあり、極端な話では「手術した翌日からリハビリを開始」なんてこともあるのですが、この病気は全く逆なんです。
ただただ、じっと寝ている生活も辛いんですよ (・_・;)
入院していた部屋は4人部屋で、県立医大病院の本院ということもあってか眼科病棟でも重篤な4人が集められていました。
確か「網膜剥離の患者さん」が私を含めて3人、それにまだ小学校に上がるか上がらないかという小さな男の子が「ぶどう膜炎」という病気で一緒に入院していました。
「ぶどう膜炎」は総称であり、それぞれの症状と炎症を起こしている部分によっては違った病名が付けられることもあるそうです。
その男の子を苦しめている原因となるものは本人も親御さんも積極的にお話されようとしませんでしたので、私もよくわかりませんでした。
その男の子は私が入院する前からその病棟におり、私が退院する時も見送って下さいました。
永く入院を強いられているようで本当に可哀想でなりませんでした。
その時期といえば一番友達と外で遊んだり(最近の子供さんはゲームが楽しいのかなぁ~??)したいだろうに・・・と思うとこちらまで辛くなりました。
男の子の病気は、この眼鏡店勤務の職業に就いてからようやく知った病名でした。
その当時は本当に聞き慣れない眼病だったので、その男の子に対してどういう励ましの言葉をかけたら良いのか分からず、その子が所有しているゲームやおもちゃの話を聞いたり一緒になって遊んであげたりしていました。
4人部屋の中で私は18歳だったこともあって話しやすいお兄さん的な存在だったのか、よくなついてくれてました。
私が退院する時には、自分の大切にしている「チョロQ」の1台をお祝いにと私に譲ってくれたことを今でも思い出します。
この記事を書いていて当時の事を思い出すと、今でも目頭が熱くなってきます。
「今、あの子はどうしているんだろう・・・?」と。
元気に社会でご活躍されていることを願っています。
文字数の関係で今回の記事は、ここまでになります。
手術までの待機期間の記事についてこの先は、次回でご紹介させて頂きたいと思います。
今回も記事を引っ張ってごめんなさいm(_ _)m
私の眼日記 網膜剥離編の記事はこちら
網膜剥離【左眼】2 (今回の記事)