私の眼日記⑧番外編~昔の眼鏡屋~

私の眼日記⑧番外編~昔の眼鏡屋~

読者の皆様、こんにちは。

そろそろ日差しが強くなり、晴天の日はサングラスが必要な季節になってまいりましたね。

いつも私の記事をお読み頂き、誠にありがとうございます。

 

さて、前回までは私の経験した眼病の中でも一番辛かった最初の網膜疾患の記事でした。

何十年経った今でも当時の事は思い出せますし、まだまだ眼の病気の話は続きますが、

暗い記事ばかり続いてましたので今回は一休み。

その代わりに、私が初めてこの「眼鏡小売業界」にお世話になった頃のお話、

特に当時の眼鏡加工を中心に、記事を書いてみたいと思っております。

 

実は、私は大学卒業後すぐに眼鏡小売業界に就職したわけではありません。

大学卒業後は私の父が経営していた小売店に贈答品やギフト用品(主に鍋やフライパンやケトル等の家庭金物類)を卸していた大阪市の商社に就職。

営業としての商品知識やノウハウを学ぶ為、約半年間大阪で寮生活しながら研修、

その後九州の福岡支店に転勤を命ぜられ、約2年間福岡県太宰府市の近くの大野城市と言う街で一人暮らしをしていました。

しかし、私が和歌山県で子供から育ってきた地元の商店街は、近くの郊外の商業施設の勢いに押され、廃業や移転されていくお店が後を立たず、父親の小さな商店もついに店をたたむ事になってしまいました。

そうなると、私もその後を継いで商店をしても将来はないと思い始めました。

それならばいっそ自分の興味のある業界を勉強したいと言う気持ちがあったのが一つ。

そして病院の関係者の方々や、見える目にして下さった先生方、同じように困られている方に何か恩返しをしたいと言う気持ちも、日毎に強くなっていきました。

 

眼科の医者になるには、自分の知識の乏しさと家庭の経済力の無さから到底無理だとわかっていたので、

せめて子供の頃から身近な存在のメガネについて学びたいと思い、新聞の求人広告を探していました。

ある日の折込広告で、和歌山県那賀郡岩出町(現在は、岩出市)のスーパーの中に入っている眼鏡チェーンの1店舗が求人募集をしていました。

早速履歴書を書き上げ、岩出市の店舗に面接を受けに行き、眼鏡業界へ入社したいという気持ちをこれまでの苦い経験と想いを乗せて、当時面接して下さった専務(後に社長)にぶつけました。

当時はまだ現在の様に就職に関して厳しい時代ではなかったこともあり、私の会社側へのアプローチのタイミングも良かったのか難しい筆記試験や何回もの面接もなく、採用して頂けました。

現在の様に「京奈和自動車道」なんかの便利な道路がなかった時代のこと。

一般道の国道24号線を走って自宅から車で約40分ぐらいの店舗で、眼鏡と補聴器(当時はアナログ式)、コンタクト備品などの知識と技術を学びました。

 

25歳の入社した頃は、自身が眼鏡を使っていても解らない事だらけで、ちょうど先に働いていた若い男性社員が私の教育担当者として色々教えてくれました。

その男性社員は四国の徳島県に御実家があり、当時お父さんが現役で眼鏡店を営んでいるという事で、「将来はまた徳島県に戻って眼鏡店の後を継ぐために修行している」と話してくれました。

本社のある泉佐野市内の社員寮(アパート)に住んでおり、私も研修期間(約半年間)はその社員と一緒に住んでいました。

当時は二人とも彼女がいなかったので、よく食事に行ったり、良い事も悪い事も((^^;)色々教わりました。

若かったこともあり、勤務地のショッピングセンターの中の専門店同士で知り合いになった女の子達と一緒にカラオケや飲み会、ドライブ等、楽しい青春の日々でした。

その内の女の子の一人のご紹介で、のちに私の妻になる女性と出会う事もできました。

彼女は、高校生の時に私が担当したお客様でもありました。

学校を卒業されても当時の私の接客をずっと覚えていてくれてそれが御縁で後にお付き合いし、結婚に至りました。

こうやって記事を書いていても、当時を懐かしく思い出せます。

 

当時の眼鏡と言えば、まだガラスレンズが主流の時代でした。

小さなお子さんやクラブ活動で激しいスポーツをする学生さんや、オシャレなカラーレンズを希望される女性以外はガラスレンズにされるのがごく普通でした。

現在の販売内容からすると全く逆ですね!!

現在普通に加工しているナイロールフレーム(フレームの一部分のレンズの固定の方法がテグスや極細の金属で止められているもの)でもガラスレンズを使用していました。

溝を掘る加工時にレンズにバリを入れてしまい、上司によく怒られたっけなぁ~。

私自身もガラスレンズでナイロールフレームを掛けていた時代もあります。

たまにⅡポイントフレーム(レンズに孔をあけて、ネジとフレームの一部分の金具で固定している所謂フチなしメガネと言われているもの)の加工があるときは大変でした。

当時私の勤務していた会社ではドリルを使う事が許されなかったので、古くなったドライバーの先を砥石でキリの様に尖らし、手作業で少しずつ穴を開けていったのです。

一つのフチなし眼鏡を仕上げるのに1個の孔に対し約1時間、4点で止めるタイプだと4時間位かかって仕上げたものです。

信じられないと思われますが、その会社ですごい店長が当時おられて、ガラスレンズに孔をあけてフチなし眼鏡を作っていまして、完成したその眼鏡を見て「まさしく職人さんやなぁ~」と非常に驚いて感激した記憶があります。

 

メーカーでのアンカットMETS(極限にメーカー側で薄くなるようお客様の度数とフレームに合わせてレンズ生地を作製して送付下さる方法)以外の通常のお店側のガラスレンズでの加工は、当時の加工機はまだまだ全て機械任せと言うわけにはいきませんでした。

お客様の作製フレームとレンズが決定しましたら、レンズの型となるプラスチックの「型板」を打ち抜く「型取り器」で大まかな形を再現します。

フレームと重ね合わせて入れてみて、フレームに余分な力がかかりそうな部分をヤスリで削り落としてフレームとの大きさを調整します。

こうしないと、ガラスレンズの固さによる負担でフレームの寿命が短くなってしまいます。

それから、レンズの光学中心とお客様の瞳孔間距離に合わせて必要分のレンズ生地のレイアウトを大まかに取ります。

そしてガラスレンズを丸い状態のまま加工機にセット……すると、必ず上司に叱られます。

時間もかかるし加工機の砥石も減りやすいので、必ず必要な生地以外の部分にレンズカッターで切り込みを入れ、専用工具のヤットコでガラスレンズを割って小さくしてから加工機にセットします。

 

それから機械のクセを読み、経験と感覚で仕上げサイズの目盛りを調整しながら、レンズを削ります。

大体の大きさに仕上がると細かなサイズ調整は、手摺りの機械で調整し、最後にレンズの表裏の側面を面取りして枠入れの際の「バリ」(私達の店では、貝の形に似た割れ方からハマグリと言ったりもしていました)を防ぐ処理をします。

 

近視の強度数の方は、枠からレンズのはみ出す厚みを少しでも目立たなくさせる為に、マイナスMETS(余分にはみ出している凹レンズの側面を斜めにカットして艶出しして目立たなくさせる方法)処理の加工もしたりしました。

自店でガラスレンズの艶出しをするのは、紙やすりやメーカーから頂いた研磨粉を水で溶きながらかまぼこの板などでレンズを磨くので、手がだるくなって大変だったことも今や懐かしいです。

それに関連して面白い体験があります。

漫才師の方なんかがよくTVでかけられていたメガネで当時透明のプラスチックフレームが流行った時期がありました。

「せっかくフレームが透明なんやから、フレームにはめるレンズの山も側面も全てピカピカに磨いてやろう!!」

と出来上がりの美しさに期待して、自分の眼鏡用に一生懸命、仕事の合間をぬってガラスレンズの側面をピカピカに磨いたことがあります。

仕上がったメガネ……、確かに見栄えは高級感があって良いのですが、実際使ってみると顔を動かすたびにキラキラして気になりとても掛けていることが出来ない失敗例でした(^_^;)

 

フレームの修理も、当時はまだチタンフレームを使用されているお客様も多くなく、ニッケルや銅の合金タイプや、サンプラチナ素材と言われるフレームも多かった頃でした。

バーナーで接合する時に銀ロウと呼ばれる材料を溶かして自分でお客様の眼鏡を修理していました。

溶接する部品の位置決めや銀ロウの溶け具合によりバーナーから外すタイミングもあるので、顔を火に近つけすぎるほど真剣になり過ぎ、臭いで自分の髪の毛が焦げているのを気が付いたこともしばしばでした。

前髪だけがチジれている日が何度かありましたよ~。

一番多かったのは、眼鏡のつるの折りたたむ部分の丁番修理、次に部品の細い鼻当ての付け根の部品修理、フレームとフレームを繋いでいる橋渡しのブリッジ部分の溶接修理などでした。

チタンフレームはバーナー温度が強いとすぐに黒く焦げてしまうので、焦げた部分を紙やすりで磨き落とし、くっつかない場合は何度かやり直しの連続でした。

修理の上手な店長に直々に教わって、簡単なものは何とか出来ていましたが、それでも失敗が多く、最終的に部品を折ってしまったときなんかはお客様に謝るしかありませんでした。

上手な店長は、レンズの形を取り巻いている金属のリム切れのチタン修理も、骨折の時の様に切れた金属の外側にも別の金属を添え木の様にあてがって補強し、一緒に接合していました。

 

今回は現在私が勤務しているお店の片隅に、たまたま当時の工具を何点か見つけることが出来ましたので、私の業界に入った頃のお話をしてみたくなった次第です。

思い出すことが出来ればまだまだ書きたい事柄は存在するかもしれませんが、文字数の問題もありますので、今回のお話は一旦これで終了とさせて頂きますね(‘◇’)ゞ

 

いつも長文を最後までお読み頂き、誠にありがとうございます。

本当は趣味の無線のお話も一部加えようかと思っていたのですが、また次回に致したいと思います。

それでは、読者の皆様、また次回までお楽しみに・・・